2011年 3月
無題
今日、漠然と思ったこと。
物事、何でも、20年30年かかって、本当の価値や善し悪しが分かる気がする。
そのくらいの時間が経つと、出た当初は持ち上げられていたものでも、
結局は元のさやに収まるものが多々あると思う。
(とは言っても、昨今は物事のスパンがあまりにも短いので、見直す前に自然消滅していたり…)
私が子供の頃は、スーパーの袋は厚い紙袋だった。
手提げではないので、袋の口元を折り畳んで持つか、胸に抱えて持っていた(母が)。
袋もわりかし丈夫だったので、畳んでとっておいて、何度も使っていたと思う。
その後、紙袋からビニールの手提げ袋になり、すごい!と思った。
また同じ頃、ジュースがガラス瓶からペットボトルに変わり、
岩だらけの沢に流れるマウンテンデューのテレビCMを、羨望のまなざしで見ていた。
今ではビニール袋やペットボトルはありふれた当たり前のもので、
なおかつ、再利用や使用を控えるように見直されている。
携帯電話が発売されてから、20年30年経つのかな?
一人一台が当たり前の今。
「必要ない」と思っていた私でも、携帯電話を所有して10年以上になる。
今回の災害で、携帯が通じなくても固定電話は通じることがあった。
固定電話を持ってる友達と話ができて、とても助かった経験がある。
さて携帯電話。今後も更なるバージョンで突き進むのか、
はたまた新たな問題や危険で衰退するのか…?
原発は…?
毎日、一向に良くならない不安な状態で、眉間の皺がとれなくなった。
ご飯を作る気力が出なくて「ご飯作りたくない」とボヤいてみた。
でも外食したい訳ではないので、ギリギリまで粘り重い腰をあげてご飯を作った。
代わりに(?)夕食後の皿洗いをボイコットした。
(海はどうなる!)
(山はどうなる!)
(川はどうなる!)
(水はどうなる!)
(土はどうなる!)
(魚はどうなる!)
(野菜はどうなる!)
(果物はどうなる!)
(家畜はどうなる!)
(空気はどうなる!)
(人はどうなる!!)
テレビでインタビューされていた、避難所の98歳のおじいちゃんの言葉。
「いのちあるから、これからまだまだいいことある」
被災者のおじいちゃんに励まされた。
とりあえず私は、腕立てと腹筋をする!
小さい2人の子供を、火事場のクソ力で守った妹を見習い、
私もいざという時の為に…!
醒めない
夢
夢だったら どんなによかったか
数日前は平和だった
篤姫の再放送の最終回を ダンナ様に文句を言われながらも無視して見てた
その時に 一変してしまった
みんなを 心配で心配で心配で心配で 生きた心地はしなかった
今も 心配でしょうがない
でも 自分は 元気でいなければならない
夢
絵は先月見た夢
あまりにも美しく印象的だったので 忘れないうちに描いていたもの
真っ暗な夜
バスに乗ってた私は 最寄りのバス停で降車した
そして走り出したバスは バスではなく電車になっていた
電車は浮いて 空にむかって走っていく
空の上には 光輝く線路が見える
私は この世のものとは思えない と
その美しさに感動した
その線路の先には 向こうの世界があるらしい
その絵を 携帯の待ち受け画面にしていた
いろんな思いがめぐり 夢の話を書きました
タララッタッタッ♪♪
昨日の午前中、献血しに行ってきました。
献血の最中に、個々に設置されてるモニターでテレビが見れるのですが、
11時半ばに普段テレビは見ることないし、見る番組もないな〜と思っていたところ、
キューピー3分クッキングが始まりました。
オープニングのテーマ曲に合わせて、
キューピーが、なんとロボットダンスを踊るではありませんか!!
それを見た瞬間、腕に力が入り、笑いが吹き出すのをこらえました。
鶏のササミとオレンジのサラダを先生はちゃちゃっと作り、さて明日の献立の紹介。
「明日は葱油餅(ツォンユーピン)です」
(ああ!葱油餅だ!!)
私が子供のころ、祖母が作ってくれたことがありました。
祖母は、日本が中国を占領地化していた時代に、祖父と共に中国で生活していました。
その時に、現地の人に作り方を教わったそうです。
味は、さほど美味しかった記憶はありませんが(^^;)、
市松模様の台所の床、
薪風呂の焚き付け炉、
ガス台に向かう祖母の後ろ姿、
なつかしい情景が浮かび上がりました。
キューピーと祖母をなんとか関連づけてシメようと考えたところ…
あ、似てました。
頭も体系も(>▽<)
葱油餅、作ってみようと思います。